禁煙
ある日、ルームメイトが、禁煙するという。担当のカウンセラーは、未だそこまでするのは早すぎると言っている。わたしもそう思った。だが、頑固な彼は禁煙も始めた。
確かに子どももわたしも「タバコ臭い。」といつもバイ菌扱いしていた。彼の直系の家族、親戚はみんな喫煙者、彼も黒タバコを一日一箱吸っていた。幼い頃からモクモクとした煙の中で過ごしてきた彼に禁煙は難しいのだ。
今でも忘れない、娘を無事出産した二日後の退院の日。
待つことや我慢することが出来ない彼は、さっさと退院手続きを終えてクーファンに入れた生後間もない子どもを左手に持ち、体調が思わしくないわたしを気にすることも無く、さっさと病室を後にした。
病院の玄関を出る直前に右手で内ポケットからライターとタバコを一本取り出し、タバコを口にくわえ、ライターをつけて、ぱーっと吸い始めた。タバコの煙が、キリッと冷えた空気に漂うと、そこに冬の日差しが現れた。タバコを吸いたくて仕方がなかったのだ。だから、猛スピードで退院手続きしてわたしをいたわる訳でもなく、早足で病棟の廊下を歩いたんだ。
その彼の後ろを、自然分娩の際に切ってふた針縫った傷跡の強い痛みに堪えながら猫背でゆっくり歩くわたしは、五メートル先に映るわたしの家族に少し不安な未来を抱いたものだった。
タバコの煙は、彼が左手に持つクーファンを包み、そして後方のわたしへ流れてくる。
煙の洗礼。
なんでこの人の子どもを産んだのだろうかと冷めた想いがよぎる。
そんな彼が禁煙を決めたのは子どもに言われたから、そして、友人達も禁煙の努力をしていたからだった。
禁煙するのは、「いつからはじめるのか」が難しいものである。彼の場合、きっかけになったのはクリスマスに行った旅先のパリだったらしい。
到着翌日の朝、宿泊先のレセプションで教わった通りバス停に向かおうと、家族三人でホテルを出て、左方向へ子どもと手を繋いで歩き始めた。目の前の大通りを挟んで向こう側に直ぐバス停を見つけ、私たちが乗りたかった路線番号のバスが停車するところだった。
そのバスに乗るであろう乗客の列が長かったので、少し急げば充分間に合うと判断したわたしは、子どもと手を繋いだまま走り出すと、ルームメイトは一人キレた。毎度の如く。
タバコを吸い始めるまで吸うこと以外は考えられない彼は、
「ヘイ、今朝から一本も吸ってないんだぞ。吸わせろ。」
と、歩きながらタバコに火をつけて吸い始める。
バス停めがけて走る私たちの背中を追いながらタバコを吸いつつ早歩きするルームメイト。
子どもとわたしはバスに乗ることもできたが、彼が来ないのでバスの乗車口ドアを目の前にして、乗車するのを諦めた。
バスが発車したところへ彼がバス停に着いた。小さくなったタバコを地面に捨て足で揉み消しながら、
「バスなんていくらでも来るさ。」
と少し弱気にいう。子どもは一撃、
「お前のせいだ。次のバスまで二十分も待たなきゃ行けないじゃない、寒い中。」
と、怒鳴り散らした。
この旅行以降、ルームメイトの禁煙が始まった。
でも、そのせいで、わたしや子どもへとばっちりがくるのだ。イライラして短気が更に短気になり、ちょっとした事で私たちに怒鳴り散らすのだ。
家族に当たり散らすなら吸ってくれ。