退院後の悲劇
退院は出産から二日後の金曜日、昼過ぎだった。
もうしばらく入院していたかったのだが、もう家に帰っていいという。でも、メスを入れたところ、出産の後ふた針縫った会陰切開した箇所が異常に痛む。
何度か痛み止めの注射を腰に打ってもらい、その時は楽になるのだが、時間が経つとまた痛むのだった。
家に戻ってからは処方された痛み止めを服用するが、注射の痛め止めのようには効かず、我慢するしかなかった。
母乳を与えたり、オムツを替えたりと赤子の世話をしている間はそれほど気にならないが、夜になると寝られないほど辛くなるのだった。ベットから出て、居間へ移動し、ソファーに顔をうずめる。傷口が痛くてソファーに座ることさえできず、赤ちゃん用の浮き輪を座る位置にかませて何とか座ることができた。
退院から一夜明けた朝、彼が言う。
「家族や親戚が子どもに会いたいと待っているから、みんなで実家に泊まりに行く。」
わたしは断固反対だった。こんなに痛くて歩くことさえままならないのに、潔癖症で家事嫌いな姑のいる家に泊まり、こんな体で更に気を遣い、寝ていたいのを無理してみんなの会話に同席しなければならない、なんてありえない。
家族親戚はわたしに興味があるのではなく、生まれてきた子どもに会いたいのであって、彼の両親は、長男の孫と週末を過ごしたいだけなのだ。そして、そのことを近所の人達や知り合いに自慢したいのだった。
「みんな病院に来て生まれた子どもに会ったんだから、今日行かなくてもいいじゃない。しかも、痛くて歩けないし。」
と、わたしは反抗した。
「実家に行けば、いろいろ手伝ってもらえるしさ。」
「いや、手伝ってもらう事なんて何もない、わたしは家で休みたい。」
私たちは言い合いになった。
いつでも妹や母親の言うことしか聞かない彼は、子どもやわたしの分まで泊まり支度をして、ほぼ無理矢理、出発することになった。
会陰切開したところの痛みに耐えられなかったので、彼の実家に行く前に、町の診療所に駆け込み、痛み止めの注射をしてもらうと直ぐに楽になり、ホッとした。
彼の実家に到着して暫くは、痛み止めの注射が効いていたので、なんとかソファーに例の赤ちゃん用の浮き輪をかまして座った。昼から夕方にかけて、わたしはずっと居間のソファーに座ったままで、我が子はわたしの前のベビーベットで寝ていた。
そこへ、彼の両親の親戚や知り合いとやらが入れ替わり立ち替わり現れて、たわいもない話は永遠に尽きることなく、時に大笑いをし、そして次の訪問客が来ると、入れ替わるように去っていくのだった。
生まれてまだ数日の我が子は、すやすやとベビーベットで寝ている。
夜になり就寝するも痛み止めの注射が効かなくなり、処方された飲み薬を服用したが、この飲み薬は全く効かなかった。
子どもへの授乳や痛みであまり眠れないまま朝を迎えた。
翌日も朝からいろんな人が会いに来た。彼の両親の親戚などがほとんどで、彼の地元の友達も会いにきた。わたしは体調が思わしくなかったので、居間の暖かい光の差す場所に設置されたベビーベットに子どもを寝かせたまま、一人で二階の寝室で休ませてもらうことにした。
他人の家で気を使い、いろんな人と会って、肛門のあたりはズキズキと痛む。ひんやりとした慣れないベットにそっと入り、ただじっと我慢し続けた。
数時間経つと彼が二階の寝室にやってきた。
「従兄弟やその子供たちがプレゼントを直接渡したいといっているから、一階に降りてきてくれ。」
という。
「そんなの自分一人で受け取れば。」
とわたしは答えた。
「それじゃあ、せっかく来てくれた子供たちに悪いから降りてきて直接受け取ってくれ。」
と彼は言う。本当に人の痛みがわからないやつだ。
わたしは、無理矢理起きて階段を下り、笑顔で迎える彼の従兄弟夫婦やその子供たちのいる居間へ行き、主役であるかのような彼らの前に、風呂にも入れず髪もボサボサなまま姿を現し、どうでもいいプレゼントを受け取った。
わたしが欲しいものは、我が子へのプレゼントではなく、生まれて間もない我が子と二人でゆっくりと休める空間なんだよ。
主役はプレゼントを渡す彼ら。わたしの辛さをわかってくれる人は誰もおらず、みんなわいわい騒いている。
一人わたしは、再び二階へ上がり、横になった。目を閉じると、下から聞こえてくるみんなの騒ぎ声だけが聞こえる。
夕方四時ごろ、痛みにこれ以上耐えられず、彼に病院へ連れていって欲しいと頼んだ。
出産した病院までは車で三十分、もう少し近い救急外来は十五分。多少時間が掛かっても出産した病院へ行くのが普通だろう。でも、何故だろう、彼の家族たちは近場の救急外来へ行け、という。
次の授乳までまだ二時間くらい時間があるから、子どもは置いていったほうが良い、ということになった。正直わたしは、この時我が子の事を気にすることなどできる状態ではなく、それだけ痛みは激しく、歩くのもままならなかったのだった。