gigiのブログ

国際結婚の末の家族生活の日々

回想~子宮頸部異形成

子どもがもう直ぐ二歳を迎える頃、わたしの体重は更に六キロほど落ちていた。


朝から晩まで働き、夕方からは子どもに付きっきり、疲れすぎて子どもに夕食を準備することもできず、ベットにうつ伏せに倒れ込んでいたこともあった。


うっすらと目を開けると、羽毛布団の白い雲の向こうには、子どもが何となく心配そうな目でおもちゃ片手にわたしをじっと見ていた。


そんな時にかぎって、いつもなら午前様のルームメイトが仕事先からまっすぐに帰ってきて、


「子どもに飯も与えないで何寝てるんだ。」


と言う。


わたしへの心配はもちろんゼロ。子どもの世話をしてくれるのかと思えば、ルームメイトはシャワーを浴びて、外出した。


彼が出ていった後、わたしは子どもにご飯を食べさせ、お風呂に入れて寝かしつけ、自分の夕飯のためにフォークを持つ力さえ残っておらず、寝室へ直行することもあった。



わたしが子宮頸部に異常があるのを知ったのは、本当に偶然だった。


身も心も疲れ、少しでも英気を養おうと、この年は年末年始を日本で過ごそうと決めた。子どもにとっては初めての日本のお正月だった。


旅の疲れもあったが、それでも気持ちは安らぎ、時の流れが緩やかでのんびりできた。そして、日本語を話せば簡単に全てが通じる気楽さに、日頃、知らず知らずのうちにどれだけのストレスが掛かっているのかと、自分自身を哀れに思った。


この一時帰国の時、母が、「婦人科の検査したら。」とぽろっと言った。そういえば、出産してから一度も検診を受けていなかった。


わたしは、実家の近くで婦人科検診に行った。


その結果、細胞に異常があるので再検査するように、と言われた。


日本から戻り、再検査を行なったが結果は同じ、中から高度の子宮頸部異形成だった。


直ぐに摘出した方が良いということで、子宮外妊娠手術や出産でもお世話になったあの総合病院へ行き、手術の日を待つことになったのだった。



手術は日帰り、一人で車を運転して病院へ向かう。


朝八時ごろ受付を済ませて、着替え、麻酔の準備、看護士の方々とも和気あいあいと話をしながら、ベットに寝た状態で待機する。


手術の時間になった頃、担当のドクターと初めて顔を合わせた。ベットで仰向けになっているわたしの前に、


「あら、久しぶり、元気。見覚えのある名前だったからもしかしてと思ったけど、あなただったのね。」


その声は、卵管摘出の緊急手術をしてくれた命の恩人の女医だった。


わたしはびっくりしたのと同時に、辛かった記憶、無事に子どもを授かった想いなどが一気に蘇り、涙が出てきた。


あの手術から約三年が経ち、あの時よりも数段上達した語学力で、三年前のお礼や色々あるが何とか子育てしていることをドクターに話した。彼女は笑ってくれた。


「子宮頸部を円すい状に少し切り取るだけ、最近多いのよね、大丈夫、一時間くらいで直ぐ終わるから。夕方には家に戻れるわよ。」


とても心強かった。この女医さんなら安心して任せられる。



手術室に運ばれ、麻酔で意識は遠のき、体がとても楽になった。そして、このまま、不摂生がエスカレートするルームメイト、仕事や家事育児など全ての現実から解放されたい、と思いながら、わたしは眠った。


子宮頸癌の手術は終わった。



仕事先に電話して、手術の経過は良好、安静にしていれば特に問題ない旨を伝えると、上司から、


「家で療養していても家事とかやっちゃうでしょ、だから、何もしなくていいから出勤しなさい。」


と言われた。上司といっても、それは会社の長、社長からの言葉でその言葉をわたしはこう解釈した。


「良好で問題ないなら出勤して働け。」


こうして、手術後三日目から会社へ行き、ゆるく仕事をすることになった。だが、その後日から手術痕の出血が続き、体力もなく夜の救急窓口へ駆け込むことになった。


子どもを預かって貰うあてがなかったので、子どもを連れて病院へ行った。この時の医者は南アメリカから出稼ぎに来たやる気のない中年男性だった。


内診を受け、特に問題はないが、点滴をした方が良いということで、簡易ベットに横になった。


ベットの横には子どもがいる。そのうちぐずり出したので、狭い簡易ベットに乗せて右腕で抱きかかえ、左腕で点滴を受ける。


これでは何だか点滴も効きそうにないなぁと、薄暗く低い天井を眺めながらぼうっとして、わたしの人生、何でこんなに辛いんだろうとしみじみ思った。


そのうち、子どもがトイレに行きたいというので、自分で点滴を止めトイレに連れて行く。そして、また簡易ベットに横になり、点滴再開。


今度はお腹が空いたと、ぐずる子ども。もう夜の八時、そうだね、お腹も空くね、付き添ってくれて有難うね。


とても疲れ果てていたわたしは、子どもに


「向こうの部屋に行って看護士さんにヨーグルトでももらってきなさい。」


と指図した。看護士さんを探しに行く小さな背中を見て、さらに辛くなる。


しばらくすると、ヨーグルトを片手に嬉しそうに戻って来た。よかったね、食べるもの貰えて。


点滴が終わり、私たちは家路についた。



わたしは翌日から会社を一週間ほど休み、しっかり療養することにした。更にベビーシッターも頼んで、託児所へのお迎えと公園遊びをお願いする事にした。食べるものも出来合いのもので済ませ、少ない給料は全て療養の為に消えていった。


手術後は、半年に一回細胞の検査をした。そして、再発を防ぐためにヒトパピロマウイルスのワクチンを三回接種した。薬局で高いワクチンを買い、アパートの隣に住む看護婦さんに毎回注射してもらった。


あれから、もう直ぐ十年が経つ。今は年に一度子宮頸部の細胞診をしている。

×

非ログインユーザーとして返信する