gigiのブログ

国際結婚の末の家族生活の日々

悲劇の救急外来

直ぐに病院へ到着したものの、日曜日の午後の緊急外来はとても混んでいた。


待合室には流行りのインフルエンザと思われる患者がざっと三十人は座っていた。


彼に支えられながら、私たちは受付で状況を話した。だが、どうも私たちを疑っている様子。出産を終えたばかり、どこに住んでいるの、赤子をなぜ連れてこなかった、何で出産した病院へ行かないんだなどなど。


受付カウンターにもたれて何とか立っていたれるわたしに、受付の若い女性は冷たい目線をわたしに向けながら、ありとあらゆる質問をしてきて、なかなか待合室へ通してくれなかった。


彼の実家に行くことになってしまったことを悔やむ自分と、彼や姑、小姑への憎しみが湧いてきた。


受付担当者は、どうやら出産を終えたばかりのアジア人と彼を見て、人身売買でもしたのではないかと疑っていたようだ。だから、生まれてきた子どもは今どこにいるのか、としつこく問い詰めてきたのだった。


一応誤解は解けた模様で、待合室で待機するように言われた。


あまりの痛みで涙が溢れてきた。


飽和状態の待合室、腰を曲げて痛みで泣いているアジア人を、待合室の人たちはジロジロと見るが、誰一人としてわたしに席を譲ってくれる人はいなかった。


わたしは待合室の隅に壁伝いにしゃがみ込んで床に腰を下ろした。辛すぎる瞬間だった。そして、涙は止まらなかった。


何分経ってもわたしの名前は呼ばれず、わたしは彼に愚痴る。


「出産した病院へ行けば、こんなことにはならなかった。」


と彼を責めた。半ば彼も同じことを思っていたようだった。でも、ここまできて、今更あの病院へ行けば更に遅くなるのは間違いない。


時間は過ぎゆき、刻々と授乳の時間が迫っていた。


実家から連絡が入った。


我が子が泣き始めたというのだ。


「薬局へ行って粉ミルクと哺乳瓶を買って飲み与えるね。」


と姑は彼に言って電話は切られた。


仰天。


わたしは代理母か。


暫くは母乳で育てると決めていたし、実の母親に説明や許可もなく、ミルクを買い与えた姑と小姑。


奴らを恨んだ。



わたしの名前が呼ばれたのは、彼の実家を出てから二時間以上立ってからだった。


名前を呼ばれてホッとしたのか、名前を呼ばれると痛みが少しだけ和らいだのを覚えている。


会陰切開を縫った場所、そして頸部の方まで内診した。この上ない激痛に、わたしは大声で叫んだ。


すると、股を広げた脚の向こうの壁側に立っていた彼が、軽く気を失い床に座り込んでしまった。どうやら切開したところをまじまじと見ていて、気分が悪くなったようだ。


わたしは幻滅した。


自分たちの住むアパートで療養しながら、家族水入らずで過ごしたかったのに、あんたが無理矢理引っ張り出したから、こんなことになったんだ。気分悪くなってんじゃねえよ、お前のせいだ。


救急外来の先生曰く、傷口に炎症などもなく特に問題無いという。そのまま診察が終わりそうになったので、無理を言って痛み止めの注射をまた打ってもらった。



実家にいる我が子に会えたのは、冷え冷えとした夜になってからだった。


我が子を見て、せっかく母乳で育てたかったのに、ミルクだってわたしが一番最初に飲ませてあげたかった、と置き去りにして病院へ行ってしまったのを無念に思った。


彼も疲れたのであろう。意気消沈した様子で、「家に帰る。」と家族にいう。


私たちはそそくさと急いで荷物をまとめて、誰から貰ったのか区別のつかない大量のプレゼントを持って、自分たちの小さなアパートへ帰った。帰りの道中、わたしは彼に当り散らした。


それから一ヶ月、わたしはほぼ寝たきりの生活だった。子どもに母乳を与え、オムツを替え、それ以外はずっと寝ていた。我が子が寝ている間はわたしもほぼ寝ていた。子どももわたしも家から出ることはなかった。


気づいてみれば、シャワーも三日に一回。本当に具合が悪く、みるみるうちに体重は妊娠する前と同じに戻った。



切開した傷口は、十年以上経った今でも、生理の二日目から三日目にかけて痛みを感じるし、ずっと立ちっぱなしの時も痛む。そして、あの辛かった魔の週末を思い出すのだった。

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